走ることについて考えること

走ることは苦しいことである。

私自身、子供のころは走ることに対しては、何ひとつよい思い出はない。

幼稚園のころ、鬼ごっこで私が鬼になると
あまりの足の遅さのあまり、半永久的に誰も捕まえることができないので
gossyは捕まっても鬼にならなくていいよ
と、鬼ごっこの概念を根本から覆すような特別ルールが採用され
それはそれで、子供心に大いに傷ついたものである。
鬼にならないのがわかっているのに、無意味に逃げ回ることの意味がさっぱりわからなかった。

小学生のころ、運動会の徒競走は6年間ダントツのビリで
運動会の度に、「こんなもの雨で中止になってしまえ」と
前日にてるてる坊主を逆さまにしたものを作って、部屋にぶらさげていたりして
ひとり運動会を呪っていた。

50mを走らせると、カールルイスやベン・ジョンソンが100m走るよりも遅いタイムだったし
800mを走らせれば、200mのグラウンドで周回遅れになるぐらいのぶっちぎりのビリだった。



ところが、月日は経ち、人間の運命というものはわからない。

あれだけ幼少期に苦しめられた「走ること」に自ら進んで取り組むとは、一体誰が思ったであろうか。
正直、私自身が一番信じられない。

では、大人になった今、走っていることは楽しいのか?

そう聞かれたら、多分「No」と答えるであろう。

楽しくはない。
でも・・・
走り込んで、それなりに走る体ができてくると、苦しくもない。
10km、20kmの距離を淡々と、機械のように一定のペースで走っていると
ふっと、頭が空っぽになるときがあるのです。

これって、もしかして「無」の境地?
って、思えるときがあるぐらい。

かと言って、チャリに乗っているときのような高揚感とか
ゴスペルで「入った」ような一種のトランス状態になるような感じはないのだけどね。

ホントに「無」
自分が人間でなく、ランニングマシーンになったような。
外から自分を眺めているような気分。
これは別に「楽しい」わけではない。



あと5日後に控えた北海道マラソン。

ここで、まだ感じたことのない「無」を超えた「楽しさ」を手に入れることができるのか。

ひょっとしたら、幼少時代の走ることに対するトラウマを乗り越えるために、私は走っているのかもしれない。
幼少時代の忘れ物を取りに行くために、私は走っているのかもしれない。
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by gossy54200 | 2011-08-23 23:59 | ランニング | Comments(2)  

Commented by siro_pug at 2011-08-24 19:59 x
ある程度走れるようになれば「その先」が見えるのかなぁ?
何だか自分も超少しですが、走りたい気持ちになってきました…(´∀`)
Commented by gossy54200 at 2011-08-24 22:18
現在、高千穂遥さんの「ヒルクライマー」を読んでいる途中で
本の中に「坂を登っているときは無になる」という表現が随所にあり
その影響を受けまくりの文章になってしまいましたね。

限界を超えたときの「先」には、何が待っているのでしょうか?
それがわかるのは4日後なのですね。

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