このブログをご覧の皆様はよーくご存知のことと思うが、私はデリケートなのである。
「何がデリケートだ!バリケードみたいな顔しやがって」などと突っ込みが入りそうであるが、私はちょっとした刺激でも顔面レシーブを受けたような衝撃を感じ、頭がくらくらしてしまい、一週間ぐらいは立ち直れなくなる人間なのであった。
このデリケートな性格を直そうと、いろいろ努力はしてみた。
鶴見済の「人格改造マニュアル」で、怪しいクスリに惹かれた時期もあった。
中島義道の著書にかぶれて、徹底的なニヒリズムで「世の中はむなしくて不条理なものだ」と、自分を納得させごまかそうとした時期もあった。
キリスト教に救いを求めようと思った時期もあった。
しかし、すべては徒労に終わったのであった。
結局、自分の外に救いを見いだそうとしても、それは無駄な努力なのである。
夏目漱石の作品の中でもずば抜けて大好きな「門」から、私の心に響いたフレーズを抜き出すと
「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」
この小説で主人公は狂人一歩手前になり、仏教に救いを求めようと、寺の門をくぐったわけだが、結局門の中に救いはなかったのである。
とは言え、門の外にも救いはない。
結局、門の下に立ちすくんで、自己を見つめる以外にどうしようもないのである。
んなわけで、生きにくさをかかえたまま、いたずらに月日を消費して、もう夢も希望も持たず淡々と生きていこうぜと腹をくくったところで、HSPなる概念を知ったのであった。
HSPとは「Highly Sensitive Person」の略で、まあ、一言で言えば「敏感な人」ってことですね。
確かに私はくすぐりにものすごく弱い。
あと、ここでは書けないような方面でも非常に敏感すぎて、いろいろと困ることがあるわけです。
困ることの具体的な内容は書けませんが。
ついでに、肌に触れるものについても敏感で、タートルネックは着れません(と言うかニット系全般がダメかも)。
腕時計もダメです(ランニングのときは、仕方なくつけるが)。
時計代がかからず、経済的な私なのであった。
で、ネットのHSPチェックなるものをやってみると、確かにズバズバ当てはまり、私はHSPの人のようだ。
ということで、HSPについて書かれた本を試しに読んでみることにしたのであった。
これを読んで、ようやく私の取り扱い説明書を見つけたような感じがした。
もっと早くこういう概念に気づいていれば、今まで無駄に我慢したり争ったり孤立することもなかったのではないだろうか。
ああ、わかるわかる。
とは言え、この手の性格分類系の本全体に言えることであるが、本に書いていることを自分の心のよりどころにしてしまい「私はHSPなんだ!」と、自分の気質にしがみつき、傷つきやすい自分を演じるのはNG。
(人間の性格など、そんな単純に分類できるものではない。「HSPの要素を持っている」ならOKだが、「HSPそのもの」になりきってはダメ)
結局、この手の本に書かれていることは対処療法に過ぎず、根本的には「ニューアース」に書かれてるように、自分の考えや感情を観察して気づくしかないのでしょうね。
結局、自分が敏感な人だとわかったところで、私は門の下に立ちすくむしかないようです。
ただ、待つのは日暮れではなくて夜明けでありたいものですがね。
ごきげんよう。