ドイツの厭世哲学者ショーペンハウアーの人生論です。
世の中を斜めから見て、エラソーでひねくれた感じは、好き嫌いの分かれるとこですが
少なくとも私は好きですね。
(日本の哲学者で言うと、中島義道をもうちょいスマートにしたような感じ)
積極的に幸福を追い求めようとはせずに、苦痛を避けるべきである。
苦痛をなくすことが幸福への道なのである。
そんな消極的な幸福論なのでありますが、この辺の思想は仏教の「一切皆苦」に通じるものがありますね。
世の中にあるのは「苦」だけであって、
「快」というのは単に「苦」がなくなったに過ぎない状態であるにも関わらず
人々は、それを「幸福」と錯覚するわけなのですね。
「幸福」と勘違いされている「快」を得るためにはどうすればいいかと言うと
「一切皆苦」の考えでは「快」を得るために、まず「苦」の状態がないとならないわけだから
人はまずを「苦」を求めざるを得ないわけですな。
例えばですよ、自転車で100kmを走りたいという願望があったとします。
そのためには、一生懸命ペダルを漕いで疲れるという「苦」の過程を経るわけです。
で、100km先のゴールに到着したとき、人間は「快」を感じるわけですが、
結局、それは「苦」がなくなった状態を「快」と勘違いしているだけなのだよね。
そこに本当の「幸福」などは存在しないのです。
まったく、自転車乗りはバカな生き物です。
でもって、積極的に幸福を得ようとすると、「よし、100km突破した!今度は200kmだ。」
と、人の欲望はエスカレートして、ますます「苦」を求めるようになって
幸せを得ようとしているのに、どんどん自ら苦を背負い込んでしまうってわけ。
まあ、ここでは私の趣味の自転車を、たとえ話にしたわけですが、
これが「クルマが欲しい、もっといいクルマが欲しい」とか
「出世したい、課長では満足しない、部長になりたい」とか
「年収1000万じゃ満足できない、2000万稼ぎたい」とか
そういった話でも、同じようにベンツを買ったり、部長になったり、2000万稼ぐのには
「苦」をたくさん背負い込まなきゃならないわけ。
それで得られる「快」というのは、さっきも説明したように、結局は「苦」がなくなった状態にすぎないわけだから
プラマイゼロであって、それは幸福でもなんでもないってことになるわけなのです。
所詮、「幸福」と我々が思い込んでいるものは蜃気楼なのであるから、
だったら、最初から「苦」なんて背負い込まなきゃいいんじゃないの?
ってのが、ショーペンハウアーの幸福論なのである。
ショーペンハウアーの主張は、理屈としては「正しい」と思う。
いつだって悲観的に物事を考える人間は正しいのである。
とは言え、私はこの手の思想を心の支えに生きていこうとは思わない。
なぜなら、人間には正しいことをしない権利があるからである。
# by gossy54200 | 2010-09-29 22:21 | 読書