ちょっとはキリスト教のことを知っておいたほうがいいかなあと、聖書を開いてみた。
聖書と言うものは、何か感動にあふれる言葉が書いているのだろうかと思いきや、
のっけから
「アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み、ヤコブはユダとその兄弟たちを生み、
ユダはタマルによってペレツとゼラを生み、ペレツはエスロンを生み、エスロンはアラムを生み・・・」
このような記述がまるまる1ページ続く。
感動もクソもあったものじゃない。
何だこれは?
この名前を全部覚えられないと聖書を理解することはできないのか。
高校時代、世界史を挫折した私にとって、これはあまりに荷が重過ぎる問題であり、
ああ、神よ、私には聖書は二億年早かったと、
1ページ開いたきり、二度と読むことはなく、聖書は闇に葬り去られたのであった。
そんなわけで、聖書を読むための入門書として何かあった方がいいかなあと、
三浦綾子の「新約聖書入門」をブックオフで買ってみたのである。
本を読んで思ったことは、
これでもかこれでもかというぐらい、人間の弱いところ醜いところが書かれている。
イエスの弟子であったペテロですら
「たといあなたと一緒に死ぬことになっても、あなたを知らないなどとは決して言いません」
と誓ったその次の日に、イエスが死刑になると、自分も一緒に殺されるのではないかと恐れて、
「俺はイエスなんて知らんもんね。こんな人の仲間じゃないもんね」
とあっけなく裏切った。
そんなわけで、人間というのは本当にダメな奴だ。
人間に比べ神様は完璧だ。
人間なんか相手にしないで、神様をあがめようぜ。
という風に論理展開が進んでいきそうであるが、果たしてそういうものであろうか。
ダメだからこそ、人間は愛すべき存在なのではないだろうか。
「隣人を愛せよ」と言われたイエスも、
ひょっとしたら天国で
「私なんかをあがめるよりも、もっと現実の人間に愛情を注ぎなさい」
と思っているのかもしれない。
パリサイ派の人たちが安息日をアホみたいに大事にして、
結局、安息日にやってはいけないことが多すぎてちっとも安息じゃない
という状況において、イエスは
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」
との言葉を述べている。
その言葉を借りると
「神は人のためにあるもので、人が神のためにあるのではない」
とノンクリスチャンである私は思うわけだが、どういうものなのだろうか?
島原の乱など神のために迫害を受けた人々のことを思うと、
何か「最初に神ありき」という考えが、人間を不幸にしているように思われてならないのである。
# by gossy54200 | 2010-03-18 22:56 | 読書